トイレトレーニングとno music no car life

 必死な大人を前に、恐怖と不安に駆られ、しまじろうに励まされながらも、身につけていったトイレトレーニングの記憶は、それ自体はイメージを伴わない感覚的成分として残されており、目の前の壁に人生の不条理さを感じると、「避けたい」、「逃げたい」という感情となって表出してきて、できる人が語る「快適さ」、「便利さ」が強迫のように感じてしまうこともあります。
 8月に13年振りに車を乗り換えたのですが、この車のカーナビは、スマートフォンとリンクして、音楽を聴いたりできるらしいのですが、そういうことができると聞いただけで、憂鬱になってしまうデジタル音痴な私です。ブルースリーには憧れていましたが、Bluetoothの使用には恐怖を感じ、アマゾンmusicを利用しているものの、車内でのオフラインmusic lifeはまだ手つかずです。「腹をくくって、やればできる!」頑張ります。
 子供に勉強を教えていると、「今この内容をしっかり理解し、身につけることを避けようとしているな」とか、「自分が理解できる限界を決めてしまっているな」と感じてしまうことがあります。そのような子供と接すると、幼児が便器を恐れ、オムツを抱きしめながら、トイレトレーニングを頑固に拒む姿を連想してしながらも、「自分だって、苦手意識があって、遠ざけようとすることがあるじゃないか」と考えながら、あの手この手と尽くします。まあ、試験前の切羽詰まった状況でやり出す子供が多く、それで乗り切れることもあれば、手遅れになってしまうこともあります。また、学校のテストはこれさえやれば点数はとれると、難易度の高い問題を憎み、最小限の努力と理解で要領よく定期試験のみを乗り切るタイプは、受験時や高校入学後に痛い目にあいます。
 トイレトレーニングのもう一つ大事な点は、最後は大人たちの「できるようにせねばならぬ」という思いに観念して習得した結果、快適さ手に入れ行動範囲も広がることです。「結局はやらざる得ないことは人生にはある」「できたときの快感」が感覚的成分として残っていることを願うばかりです。  
 避けたければ避けてもいいことと、避けるべきではないことがあります。個人の状況によっても、何が前者で何が後者かは違うとは思いますが、後者から逃げる自分なりの型が標準設定されると、社会に出てから困ることになるはずです。

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